午前2時24分不意にガチャリと鍵の開く音がする。深夜の来訪者、思い当たる人物は彼しか居ない。着替えもせず寝転んで居た為皺が出来てしまったセーラーのプリッツを翻し玄関の前に立った。ドアノブがゆっくりと回されて待っていた人物が顔を覗かせる。彼の顔は相変わらず無表情だった。
「おかえり」
「・・・ああ」
微笑んだ私に彼――弖虎は少し気まずそうに視線を左下にずらす。艶やかな黒い髪は所々その輝きを失っていて瞬時に血液がこびりついているのだと理解した。そういえば微かにあの独特な鉄の匂いがしないでもない。そっと右手を彼の頭へ伸ばす。玄関の段差で今私の身長は彼と変わらなかった。伸ばされた手を動かずに受け止めた彼の髪は、触れるとパリパリと血糊が落ちていった。丁寧にその塊を解し髪の毛を梳いていく。
「・・・おふろ、わいてるよ」
「ん、」
頷いた彼にまた微笑みを一つ溢して髪を触っていた右腕を首筋、肩、二の腕、そして左手へ辿らせていく。彼の見かけによらず大きな手を包むように掴みそっと引いた。ゴツゴツと角張ったそれの体温は冷たくて私の暖を盗んでいくようだ。暖房で火照った身体には丁度良い冷たさだった。
「そと、さむかった?」
「うん」
「はやくはるがきてほしいね」
「そうだな」
私の呂律の回らない子供のような喋り方はもう随分と前から当たり前なものとなっていて始まりは態とだったのかそれとも無意識なものだったのかわからなくなってしまった。弖虎自身もそれを気にとめて考えたことはないようで――それどころか無意識のうちに幼い子への接し方のような喋り方をしているのだが――私達の関係を表す言葉を探した時に困る原因の一つとなっている。
長くない廊下を弖虎の手を引いて歩く。脱衣場に向かうと私が入れておいた入浴剤の甘ったるい匂いが充満していた。離れた手に少し寂しさを覚えながら、私が居ることを気にもせずに脱ぎ出す弖虎をぼんやりと見つめる。整った顔を裏切らない、程好く付いている上半身の筋肉がやけにいやらしく見えた。
「・・・・・・全部見たいの?」
「みられたくない?」
「・・・別に恥ずかしいとかはないけど」
「・・べつにみたいわけじゃないけど」
「そう」
「うん」
意味もなく見つめていたことをいけなかったかなと思い直し彼の着替えを取りに一度部屋へと立った。戻った先に彼の姿はなく浴室からの水音だけが私の鼓膜を揺らす。見えない為の曇りガラスがなんとなく疎ましくて、先程の反省を忘れずにガラスを叩いた。返ってきた言葉に開けてもいい?とちゃんと聞いてからドアをスライドさせる。湿った空気がぶわっと顔にかかった。甘い匂いが纏わりつく。
「なんだよ、やっぱり見たくなったの?」
「ちがうよ」
「じゃあどうした」
「弖虎のすがたがみえないの、いや」
「・・・そう」
「・・うん」
ミルク色の湯槽は彼の身体をちゃんと隠している。
「・・・どう?」
「なにが」
「にゅうよくざい。ライトローズのかおりなんだよ」
「この白は?」
「ミルク」
「ふーん・・・」
「どう?」
「・・・なんか、懐かしい感じがする」
「・・・・・・」
彼の顔が優しく、憂いを帯びた表情になったのを私は見逃さなかった。ドロドロとしたものが私を渦巻いて侵していく。彼のこの表情は私には決して作ることのできないものであることを私はとっくの昔に知っていた。
「・・・昔・・・なにかであったような」
「・・・」
「なんか、眠くなる」
「・・・・・・」
「安心すんのかな・・・」
「―――、3X・・・?」
空気が凍るのがわかった。弖虎の瞳が何も映していない。それなのに、彼は確実に私を睨んでいた。
「・・・あ、」
「どういう意味」
「―――」
「どうした?怒らせたかった?」
「ちが」
「意味わかんね。」
「ごめ、んなさ・・・」
触れてはいけない彼のタブーは相変わらず彼を支配していた。失せて尚彼の心に居座っている彼女が憎い。けれどそれ以上に弖虎に拒絶されることの方がもっと、痛かった。
もう一度小さく謝罪の言葉を述べ浴室を出た。彼が帰って来る前にそうしていたように古びた長ソファーに横になる。投げ出された腕は重力に従い項垂れていて、やはり同じように重力に従順な前髪が私の視界の一部を遮った。彼の瞳の冷たさが脳にこびりついて離れない。怖い。悲しい。寂しい。憎い。いろいろな感情が私を惑わせる。ただ唯一変わらない想いはいつだって『彼を好きだ』ということだけだった。物音がして彼が上がったのだと知り、相変わらず身体は横たえたまま聴覚だけを冴えらせる。
「・・・ねえ、忘れてよ」
「は、」
ぼんやりと宙に浮いていた目線が彼の姿を捉える。可笑しいな、言葉が止まらない。普段なら飲み込めていた数々が止めどなく流れ出てきた。
「やめて。あたしをみてよ」
「・・・」
「いま弖虎のめのまえにいるのはだよ?」
「・・わかってる」
「あたしは弖虎が好きだよ!弖虎をだれよりも愛してる。」
「」
「弖虎のねむれるばしょになってあげる。すべてのものからまもってあげる。」
「」
「あたしは、あたしだったらぜったいに弖虎をおいていかない!」
「―――」
決して大きいわけではなかったが私の感情達はその優しい彼の声色に勢いを失っていった。かわりに浮かび上がるのは後悔と畏怖の念。やってしまった。最初から、彼を知ったときから分かっていたことだったのに!彼を見れば視線は簡単に交差した。反らさずに私の瞳と対峙しているその黒はキリングマシンの名前に相応しくない色をしている。ああそうだ、私はこれすらも知っていたのだ。『彼は酷く優しいから誰も拒絶できない。』
「―――、弖虎」
「ん?」
「てとら」
「・・・?」
「好きだよ」
「・・・ごめんな」
彼が人を愛せないのだと分かりながら私を愛することを強要した。彼の傷を抉ってその隙間に漬け込もうとした。
優しい彼が拒めないのを知りながらその胸に縋った。