君に贈る7つの存在



5 英雄とは 法律的存在ですか それとも道徳的存在ですか
二人とも怖いものがあった。あたしは暗闇で、康弘は低い声だった。目を凝らしても先が見えない闇は、いつだって静かにそこにあった。昼をころす夜から、後ろを離れずついてくる自らの長い影から、あたしは全速力で走って家の灯りに逃げこんだ。夜は灯りを消しては眠れない。いつだってタイマー式に灯火は落とされる。
かわいそうな康弘。不機嫌を露にして全ての怒りを押し殺して地を這う声を、彼は身体を強ばらせて拒絶することで耐えていた。黙り込み、全身で否定する彼の声はその頃よりずっと低くなってしまった。
二人共通して恐ろしいものは、この世にあらざるものだった。お化け、幽霊、妖怪、物怪、非科学的なことをあたしも康弘も信じ続けている。世にも奇妙な物語をうっかり見てしまってお風呂に入れなくなったり、二人とも夏の肝試しには参加しなかったし、林間学校では強がって話題を提供し続けていた。暗い暗い怖い怖い悪夢を見て眠れなくなってしまったときには、父親の腕の中で背を向けて丸くなって眠った。あたしは今でも横を向いて丸まって眠るけれど、背に感じるあたたかさに安堵することはもう、ない。
それに新しいものが加えられたのは十三年前だ。
衝撃。
炎。
真っ赤な空。
瓦礫。
破片。
立ちすくむ人人人。
冷たい手。
大きな音と紅蓮の炎が恐怖の対象になった。
テレビのテロップで流れる白い文字列に身体は固まり神経系統はフリーズ。延髄が損傷したように呼吸が荒くなってしまうし、災害と復興の特集など見せられた日には頭痛が襲ってくる。精神と生理がシナプスを形成してしまったせいで、意志とは無関係にドンドンと乱暴に扉が叩かれる。
脈動に合わせ、ずきずきと軽い痛みのような疼きを頭に覚えた。破壊と再生の映像を見せられた時と同じだ。それでも平静に振る舞うことには慣れた。脳内の異常を悟られないスキルを磨き、手元のメニューを読む。エマージェンシー、エマージェンシー、脳圧上昇、脈拍上昇、体温の低下、エマージェンシー、心が悲鳴をあげています。
「あれ、お前飲まないの?」
「え、いいの?」
「奏多ちゃん飲むんだ」
「ザル通り越してワク」
「みんなが弱いだけだって。じゃあ梅酒ロックで」
テーブル席に腰掛けたあたし達はざっとメニューに目を通すと、ドリンクと乾き物をいくつか注文した。結弥はバイクだから烏龍茶。あたしは許可が出たので梅酒。ハル兄の弟だという鳴海さんはギネスビール。
あたしの隣に結弥が、向かいには鳴海さんが座っている。まるで学校の三者面談みたい。再会に乾杯と軽やかにグラスを鳴らし、甘い液体に口をつけた。
駅から少し歩き、路地を入ったところにあるアーニーパイルはあたし達のよく来る店だ。リーズナブルな値段でお腹いっぱいになるし、お酒も種類が豊富でおいしい。イタリアの家に遊びに来たようなお洒落な店のBGMはアコースティックギター。夜にはロウソクが灯される。瞳の中で光が揺らめく不思議な雰囲気があたしはすきだ。店内は広々としていて、カウンタの向こうにはバーテンが一人、色とりどりのリキュールが陳列する中で華麗にシェーカーを振っている。
鳴海さんはビールを片手に頬杖をついてあたしを見た。下から上へ、文字通り逆撫でする視線は不躾であるはずなのに、あたしはそれを拒絶できない。
「結弥と同い年?」
「学年は。結弥は一つ上だから。鳴海さんは二つ上?」
「そうそう。だけど今は同じ学年ってことになるな。さんはいいよ、鳴海で」
「さっき結弥の同級生って」
「こいつ一年入院してたんだ。で、義務教育が修了できず俺と同級生ってわけ」
「年上ってだけで敬遠だもんな」
困ったように笑いながら、鳴海さんは生ハムをつまむ。あたしはチーズに手を伸ばし、口の中に放り込んだ。隣の結弥を仰ぐが、彼はあたしに気づかない振りをする。ウーロン茶に口をつけ、結弥はくつくつと笑った。当時のことを思い出しているのだろう。あたしの知らない彼らの中学生時代。そこにきっとハル兄はいない。
「あれは誰だって引くだろ」
「ちょっとやんちゃだっただけだろ?大した問題じゃない」
「異質なものを排除したがる集団の心理。自覚すらないなら仕方ないな」
「論理武装なのは変わってない、と。お前それ鬱陶しがられてないか?」
「お前こそ、その飛躍と偏見どうにかしろ」
ふん、と軽く鼻を鳴らすが、彼の笑みは消えない。そっくりであるはずなのに、似ていれば似ているほど感じる違和感。
十三年という月日が流れていなければ、きっとハル兄と間違えてしまうのだろう。そのくらいの瓜二つ。きっと一卵性だ。塩基配列も卵細胞質さえも二人で分け合った双子。名前こそが認識の第一歩である。鳴海さんを最初にハル兄だと知らされなければ、あたしにとってハル兄は目の前にいる彼であるはずだった。例えば、今目の前にいるのがハル兄だとしても、過去の彼と同一だと誰が証明できるだろう。色眼鏡で見る3D映像のように、ぶれてしまって重ならない。誰か論理と知性を羅列し、数式を組み立てて証明してほしい。さしずめ時空間記憶方程式か、残念ながら誰にも解けそうにない。
かなしくておかしくて泣きそうになる。かえりたい。でもどこへ。
カラカラと液体のなくなったロックグラスを揺らす。角の取れた氷が薄く琥珀に色づき、ロウソクの灯りを頼りなく反射している。
「それよりお前、明日からどうすんだ?」
「別にいつ帰ってもいいし、結弥と奏多ちゃんが研究してるとこも見たいしな。しばらくこっちに居ようか」
「そんな大したことやってる訳じゃないよ」
「雰囲気っての、そんなやつ」
「いつ来るの?ならうちの女王さまを紹介してあげる」
「御園?」
「そ、御園千鶴」
「それは楽しみだ」
女王さまとは千鶴のことだ。きっと彼女はこの人当たりの良さを装っている鳴海さんをたっぷり五秒ほど大きな瞳で睥睨し、心底いやそうに眉根を寄せる。そうしてあたしの方を見て、どうしろと、って少し苛立をにじませるのだ。それでも彼女は一通り本当に形だけの挨拶を淡々とこなし、後であたしはお説教をくらうのだろう。鳴海さんはどんな反応をするのだろう。酵素と基質の決まりきった特異的反応よりももっと、ミューテーションのかかった螺旋構造のように予測不可能だ。あたしは悪戯を思いついた子どものように頬を緩ませる。外の皮だけの微笑み、ただこくこくと頷いている張り子の虎。あたしの瞳は笑っていないのかもしれない。
鳴海さんはまどろみの中にいるように、猫の仕草で首を回した。
「で、と。奏多ちゃんは言いたいことがあるんだろ?」
「え  」
首根っこを掴まれて後ろに引き戻されるように、もやもやとした無形の思考が枠内にぶち込まれる。その急激な変化に対応できずに、びくりと肩が震えた。静寂だった聴覚にBGMと店の喧噪が滑り込む。
表面上の会話などいらないと、窓ガラスを叩き割る凶暴さを孕んだ鳴海さんの瞳。
「俺の顔に何かついてる?」
「目と鼻と口、とか」
「そうだろーな」
それで?猫のように目を細め、鳴海さんは口角を持ち上げる。言いたいことは分かっているのだ、きっと。あたしのスーパースターの片割れだとすればなおさら。それでも自ら核心をつかずにあたしに言わせようとしている。なんて残酷な人。その思惑になんて乗ってやらない。ハル兄の不在から、あたしだって成長している。少なくとも歪み捻くれてしまうほどの時間は十分だった。背を伸ばし、意識して口元を引き結ぶ。
「あたしのことは結弥に聞いたの?」
「俺が話した。級友との単なる世間話、他意はない」
「兄さんから奏多ちゃんのことを聞かされてた俺は、同じ名前と出身地の子が本当にその子か確かめてみたかった」
「で、俺がカマかけたってこと」
「それであたしはそれに乗せられたってわけ」
「悪かったよ」
息をついたあたしに謝ったのは結弥だった。鳴海さんはビールを飲み干してチーズに手を伸ばす。あたしは結弥に答えずに、あなたなんて怖くないと証明するように彼を睥睨する。震えて逃げ出したいのを必死で堪え、感情と行動を制御しているというのに。からり、とすんだ音を立てて氷が崩れた。喉が渇く。薄くなった液体を呷り、もう一杯同じ物を注文する。アルコールのせいで利尿作用が働き、余計に喉が渇くと分かってはいても口にせずにはいれない。飲めば飲むほど喉が渇くは神の水。
鳴海さんの伏せられた瞳が鎌首をもたげる。ふ、と彼は嗤う。嗜虐心を孕んだ猛禽類のような視線。そういうものを押し込め、何もないように穏やかさを装って柔らかに表情を崩す。とんだ詐欺師だ。
最上級の接客対応用の微笑みで、あたしは小首を傾げてみせた。
「失望した?」
「いや」
鳴海さんは左手で頬杖をついたが、表情は変えない。
露悪的なほどの歪み。ごぼり、と血液が流動性を失いどろどろとした暖かい闇が内側から肉体を浸食していく。身を任せてしまえばきっと楽になれる。そんな甘い誘惑が頭をよぎったが、それに勝る苛立で力強くそれを拒絶する。頭に上った血液をどうにかして全身に配分してやらなくては。小さく息をつき、この怒りを排出しようとするが無駄だった。ため息をついた分だけ幸せが逃げると言ったのは誰だろう。
「変わってないな」
ほんの刹那、懐かしむような表情をした鳴海さんは、液体がなくなり、泡の付着したグラスを傾けて中を燻らせるように回す。夕暮れのような炎の頼りない光で、泡沫、白い泡は融合して消えていく。ぷよぷよみたい。
「どういうこと?」
「教えない」
「ふぅん。けど、あなたは全然お兄さんに似ていない」
眉を寄せ、訝し気な表情を一転させ、できるだけ清々しく笑った。余裕たっぷりのハル兄はとても頼もしく見えて、背中に抱きついてしまいたいくらいだったのに、今目の前で薄く笑う鳴海さんに感じるのは苛立だ。それも完全なる八つ当たり。それと同時に跳ね返ってくる自己嫌悪。
似ていないなんて嘘だ。きっとここに同じ歳のハル兄が居ればきっと見分けもできないだろう。けれど、あたしの記憶にしまい込まれているのは、残念ながら自分よりもずっと年下の、十三年前のままの姿。自らの映った鏡を叩き割るような凶暴さで、鳴海さんは現実を突きつける。これ以上現実が攻めてこないうちに彼から離れなくては。
「あたし、帰るわ」
一次退却だ。
顔を見ないように、冷静を装って時計を確認する。まだ明日には遠いしバスもある。だから大丈夫。あたしは立ち上がって、財布から数枚のお札を抜く。
「奏多?」
「結弥、ありがとう。面白い人と出会えて楽しかった。二人でゆっくり思い出話でもどうぞ」
「逃げるのか?」
心配したのだろう、手を伸ばしかけた結弥を止め、鳴海さんには不適な笑みで返す。こちらに滞在すると言っていたから、戦いはまだ何ラウンドもあるはずなのだ。来たければ来ればいい。あたしはルーティンで研究室に向かう。
机の上に夏目さんを二枚。
申し訳なさそうな結弥に大丈夫だよ、と首を振って、あたしは颯爽と歩き出す。バーテンに小さく会釈をして表に出た。
夜の生暖かい大気がジュンサイのゼリー物質のように全身を覆う。夜はやさしい。人よりもずっと。そのやさしさが恐怖だったのに、今は甘んじて享受している。
いつからこんなに、からっぽになってしまったのだろう。夏の亡霊はそれでも現れない。ふ、っと諦めたように緊張していた頬を緩めると、康弘にとても会いたくなった。
毅然と背筋を伸ばして空を見上げる。蠍座がオリオンにとどめを刺そうと中天から地上を見張っていた。アンタレスの紅玉に目眩がする。ベガ、デネブ、アルタイル。あたしはひっそりと夏の第三角を結ぶ。





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081217

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