夏休みが終わり、新学期が始まった。
半袖を着ていても煩わしかった暑さが和らぎ、朝晩は少し冷えるくらいだ。
あっという間に衣替えも済んでいて、ついこの前まで暑かったなんて嘘のよう。
そうやって季節は毎年のように忘れられていく、消えていく、死んでいく。
新学期になったが、俺もシズちゃんも相変わらずだった。
シズちゃんは毎日のように売られた喧嘩を全部買って、暴れまわっている。
もはやその噂は池袋を離れ、東京中にじわりじわりと勢いを増して広がっている。
その増加ぶりといったら、正直俺の想定外の規模を持ち始めているほどだ。
今じゃ「相手」を探すことに苦労はしないし、むしろ希望者なんて湧いて出てくる。
もう小物だろうが大物だろうが大した選別もせず、「相手」を決めていた。
小さくため息をついた。退屈な授業をBGMに俺は携帯を開いている。
添付された画像と短い本文。昨日行われた喧嘩の様子が書きこまれている。
それはシズちゃんの圧勝の結果を示していた。
最近では喧嘩を影から見に行くことも減った。どうせ勝つのだから、と。
あまりにも当たり前すぎるその結果に、俺は少し飽きてきている気がした。
強大過ぎる力に、最初は驚きもしたがここまで常勝過ぎるとさすがに慣れてくる。
あの力があって「あたりまえ」。だからどんな喧嘩でも勝って「あたりまえ」。
非日常な出来事に慣れ過ぎてしまう。するとそれは日常に変わるのだ。
彼で遊び始めてもうすぐ半年になる。飽き性の自分にしては長く持ったほうだ。
そろそろ、潮時だろうか。そう感じるようになっていた。
欠伸を零しながら外の景色を眺めた。あいにくの曇り空が広がっている。
ふと、夏の日を思い出す。ちかちかと脳裏で輝くあの花火が、鬱陶しかった。
「静雄なら今日は休みだよ」
昼休み、廊下ですれ違った新羅からなぜか一番にそう言われた。
というか俺はそう声をかけられるまで新羅が居たことには気づかず、通り過ぎて驚いた。
振り返ると新羅は首だけ回して俺を見て、屈託のない顔でにっこりと笑っていた。
こいつのこういう顔は中学の時から変わらない。純粋な子どものような顔で笑う。
でもその裏では意外とどうしようもないことを考えているのだ。
俺だって人のことを言えないが、新羅を出し抜くのは大変だろうなと思っていた。
おそらく新羅は俺と違う方向で性格が悪い。根が割と真っ直ぐな分、性質が悪いのだ。
「なに、急に寒くなったからコロっと体調でも崩したの?あの馬鹿ならありそうだね」
「いいや、違うよ。昨日の喧嘩で頭を強く打ったみたいだから、僕が休ませたんだ」
その言葉を理解するのに、少しだけ時間がかかった。え、と間抜けな声が口から零れる。
新羅は俺のほうにしっかりと身体を向きなおした。後ろに手を組んで、笑っている。
この顔を浮かべている時点でそう重くはない症状なのだろうとすぐにわかったけれど。
どうしてか喉の奥に言葉がひっかかったまま、うまく舌に乗って来ない。
べらべら喋ってやりたいのに出来ない。ちぐはぐな感覚が気持ち悪いし、息が詰まる。
携帯に届いた添付画像を思い出す、それはいつものように標識を振り回している姿だった。
「家族には心配させたくないって言うから、昨夜から僕の家で勉強を教えてもらうために泊まっているってことにして、様子を見てるんだ」
昨日送った奴らは何処の誰だったか。前まではきちんと把握していたのに。
今じゃもう追い切れていなかった。適当に流していたから。
彼に敵う輩なんて居ない。だったら誰を相手に選んでも同じことだ。
少し飽きていた。毎度同じ結果が生まれるということは何も変化がないことと同じだ。
何も変わらないのならばもう追う価値はないのではないか。
俺はただ、あの疑問に対しての答えを出してしまえばいいだけだ。
“あれは人間ではない。愛すべき人間とは違う生き物だ”
“だったらもう構う必要はない。愛しているのは人間なのだから”
“人間ではない彼には用はない”?
「会いに行くかい?臨也」
新羅がマンションのカードキーをひらひらと翳している。
窓からの光がキーに反射してきらきらと銀色に輝く。
不規則な点滅の信号のようなそれに目を奪われる。
俺は特に何の疑問も持たず、黙ってそのキーを新羅から奪った。
そしてそのまま横を通り過ぎて行き、足早にその場を去った。
「僕とセルティの部屋を破壊しないでね、頼むから」
背後からそんな声が聞こえたが、何か反応を返す気にならなかった。
教室から鞄を引っ掴み、一応目立たないように気をつけながら、下校した。
昼休みの終わりを告げるベルを聞きながら俺は真っすぐ目的地へと向かう。
静かに、扉を開けた。キィと僅かな音がして簡単に侵入できた。
奥の部屋からテレビの音が聞こえた。流暢な声がニュース番組であることを教えてくれる。
黒いソファーの背もたれから、ちょこんと黄色い頭が見える。
あっちこっちに跳ねている寝ぐせまみれの髪がどうしてかひどく懐かしい。
耳の奥で花火の音が聞こえる。あの日から消えない。うるさい、うるさい。
しばらく黙っていると気配に気づいたのか、黄色の頭がゆっくりと振り返った。
「何してんだ、てめぇ」
予想よりもずっと静かなその反応に俺は驚いて言葉を失っていた。
もっとぎゃんぎゃんといつものように怒鳴られるかと思っていた。
そして何よりの違和感は、その頭に巻かれているしろい包帯。
今まで傷付いている姿を見たことはあるし、自らの手で傷つけたこともあった。
だから今更驚くことでもないのに。どうしてこんなに背筋が寒いのか。
「大人しいシズちゃんが見れるって聞いて」
「あぁ?・・・新羅か、あのヤロウ」
目にいつもの覇気がなかった。どこか瞼が眠たそうだ。起きたばかりなのだろうか。
怒られないのをいいことに、シズちゃんの隣に黙って腰掛けてみた。
嫌な顔をされたけれど、やっぱり怒られなかった。彼は黙ってテレビを眺めている。
ニュースは朝に見たものと特に変わらず、昼になっても世界は平和なままだったようだ。
俺は気付けばテレビではなく、ぼうっとしている横顔をただ見つめていた。
髪のほんの一部に、血が変色し固まってへばりついている個所があった。
巻かれている包帯の意味をこれでもかというほど強く、ぶつけられたような気がした。
血なんて、沢山見てきたつもりだった。もちろん彼のものだって、出会い頭に見た。
じゃあどうしてこんなに鳥肌が立つのか。
「おまえ、何しに来たんだよ」
見られていることに気付いたのか、眉間に皺をよせながらそう言う。
頑なにこちらを見ようとしないのがよくわかる。
俺とごちゃごちゃやるほど暇じゃない、というか、疲れているのだろうか。
顔色があまりよくないように見える。俺も人のことは言えないが随分と焼けない肌だ。
金の髪が嫌に眩しくて、俺はつい、本当に無意識に、手を伸ばしていた。
指が触れた瞬間、その感覚に驚いた眼が向けられて思わずはっとした。
「新羅が、午後になったら一度包帯変えろって言ってた」
「あー、んなこと言ってたな、そういえば」
理由が欲しくて、気付けばそんなことを口走っていた。よく回る頭に感謝する。
それとなく包帯を指でなぞってやれば、ほっとしたように息を吐いたのが分かった。
普段から見ていれば簡単にわかる。これは触れられることに慣れていない。
こんな力を持っているからだろう、おそらく自分から他者に触れることなんてほぼない。
そしてこれに触れようなどと考えるものなんて、ほとんどないと言っていいのだろう。
俺の手を振り払うことも出来ずに、硬直しているその様子にようやく笑みが零れてきた。
「やってあげようか?」
「はぁ?」
「シズちゃん不器用だから自分の頭巻けないでしょ、やってあげる」
すっと立ち上がり、既に覚えてしまった場所から包帯を取りだす。
いつもは新羅に治療してもらっている立場だが、自分でも出来なくはない。
面倒だし正確だから最近は新羅に任せていたが前までは自分でやっていたことだ。
混乱しているシズちゃんをよそに、俺は慣れた手つきで包帯を用意し始めた。
怒って抵抗されるかとも思ったが彼は意外と大人しく、俺の手を受け入れたようだ。
居心地悪そうに眼を泳がせてはいるが、拒絶する様子はなさそうだ。
俺は彼の機嫌を損なわないよう、隠れるように少しだけ笑って、彼の頭の包帯に触れる。
しゅるしゅると小さな音を零しながら、白が輪を描いてほどけて行く。
最初のほうは白くて綺麗な包帯も、後のほうには段々と色がついていった。
赤黒く染まった乾いた血の色だ。あぁほんとうに、頭を打ったのか。
傷口は頭の真後ろ。馬鹿なこの男のことだ、後ろからの攻撃に気付かなかったのだろう。
もう傷口は塞がりつつあるが、周りの髪に血がこびり付いている。
こっそりとそれに触れると、ぱきりと血が剥がれる。生臭い匂いはしない。
その代わりに香るのは消毒液のツンとしたにおい。新羅の治療の名残だろう。
「・・・何考えてやがる?」
「別に何も」
あまりにも静かな俺に対して不気味に思ったのか、今日はシズちゃんのほうがよく喋る。
しかし、この男の口を開くタイミングは恐ろしいほどに良い。
俺がちょうどその傷を眺めながら、爪先で開いてやろうかと思った瞬間だった。
考えるよりも先に本能で動いているタイプなのだろう。なんて厄介な生き物か。
思考ばかり巡らせている自分のほうがまるで愚かなような、そんな錯覚に落とされる。
直感に頼って生きているものは嫌いだ。単細胞で思慮に欠ける。
何よりも自分はそうは生きられないと思い知らされるから、不愉快だった。
「強いて言うならシズちゃんのことを考えてるよ」
するりするりと白い包帯が傷口を隠していく。金の髪に巻かれていく、白。
数日もすればこの傷は何事もなかったように消えて、いつものように彼は登校する。
そうなればきっと消えた傷と同じように俺が巻いた包帯のことも忘れるのだろう。
それがどうしてかとてつもなく嫌なことに思えて。俺は声を発していた。
向けられた彼の目を見て、ここに来ただけの価値はあったかなと思った。
「もしもし、面白い話があるのですが、いかがですか?」
新羅のマンションからの帰り道、俺は歩きながら電話をしていた。
彼に喧嘩をはじめさせてからというもの、俺の知り合いは少しだけ増えた。
広がったコミュニティーのひとつを思い出し、話を持ちかける。
「新しい賭博場みたいなものですよ。きっと、気に入っていただけるかと」
ざぁ、と風が吹く。秋の匂いを存分に含ませたそれは夏の香りを消し去る。
もう花火の音は聞こえない。目の奥でちらつく色取り取りの光の花は散ってしまった。
空が高く雲が遥か向こうに見える。秋はとっくに訪れていたのに何を足踏みしていたのか。
季節だってくるくる変わっていくものだ。変わらないならば、変えてやればいい。
あれにはまだ可能性がある。あんな玩具はこの世に二つとないのだから。
だったら壊れるまで遊んであげるべきだ。
あの男が倒れることがもしも、いつの日か来たとして。
その日を設定するのは俺だ。俺が知らないなんて認めない。
そんなつまらないことにはさせないさ、絶対に。
君は俺の掌の上で転がっていればいいんだ。
何故かそんなことばかりを思っていた。だからこの時は気付けなかった。
生まれてしまったこの感情の、名前を。
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